>>429 > 原典の意味をずらして「写本や翻刻があれば読める」なんてのはごまかしだってのが、わからんか。
原典の意味をずらしてるのはそっちだろ。
内容を伝えていて偶々古ければそれが「原典」。「原作」の表記法を守っている保証は全くない。
明治以降の文献は、「原作」やそれに近いものが残っている場合が多いということにすぎない。
戦前の「原典」を現代仮名遣いで翻刻して、「原典」が湮滅してしまったら現代仮名遣いが「新原典」。
学問的に「原典」を保存しておこうとする場合でも、マイクロフィルムで十分であり、「原典」のままの形を流布させる必要はない。
平安時代の作品を江戸時代の表記法で翻刻することと、戦前の作品を現代仮名遣いで翻刻することとは、本質的に違わない。
>「読む価値」を云々するなら原典が存在して見て確かめられる状態にある必要がある。
> その確認のためにもすべて書物はなるべく保存しておかねばならない。
話が逆。現に存在する書物だけが、読む価値を云々される資格をもつ。
そのうえで「古典」の列に加えられれば、近代以降は「原典」の意図的保存へと回される。
> 後世、何が必要とされるかは現在の「価値」では決められないのだから。
> それを、すべて「読まれる価値のあるものは翻字される」(
>>386)なんてわけがあるか。
それぞれの時代の価値観で必要と認められたものだけが、後世へと受け継がれる。
写本も翻刻も作られなかった文献は、その時代の審査をクリアできなかったということ。
>「読まれる価値」があっても災害その他で湮滅した文書はいくらでもある。
それとて完全な偶然とはいえない。大勢の人に読む価値ありと認められれば、コピーもたくさん作られて各所に散るから、蔵や図書館が焼けてもどこかで生き残る確率は高くなる。
現存する「古典」の多くはそういう試練を経てきた。結果がすべて、生き残ったものにだけ読まれる価値がある。
> それなら現存する明治大正の書物を全部翻刻してみやがれってんだ。
湮滅する前に価値が認められれば翻刻される。